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創業とT型フォード

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フォードT型(1910年)ヘンリー・フォードは2度自動車会社の起業に失敗しましたが、3度目のこの会社は1903年6月16日の創業から現在まで続いています。当時40歳の彼は12人の投資家から現金2万8千ドルを集めて再起を期しました。特に重要な投資家はダッジ・ブラザーズ自動車の創立者、ジョン=フランシス=ダッジとホラティウス=エルジン=ダッジのダッジ兄弟でした。

フォード・モーターは『A型』と名付けた車から製造販売をおこない1908年のS型に至ったのです。S型に続き1908年から製造販売された『T型フォード』は大量生産時代の自動車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制を形作った最初の車となり、現代の自動車産業の原点としての意味で名車といわれています。

フォード開業当時のモデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2・3人の工員が数日かけて行っていましたが、フォードではそれまでばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確保することに成功していました。T型フォードは初めての自社工場であるピケットロード工場を利用し、フル生産開始の1909年には1年間で1万8千台もの台数を生産しました。廉価なT型への需要が急増すると、フォードはさらに大型のハイランドパーク工場を建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能としました。フォード社は流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入しました。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破しました。

しかし生産技術革新は、工員にとっては、同じ動作だけの単調な労働を長時間強いられる極めて過酷なもので、人員の異動や退職も多く、未熟練工員の雇用や訓練コスト高に結びつきました。ただでさえアメリカの労働力が不足する中、フォードは労働力確保を迫られ、1914年には1日当たりの給料を2倍の5ドル(2006年の価値では103ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを1日9時間から1日8時間・週5日労働へと短縮する宣言を発し、結果応募者が退職者を上回り続けることになりました。合衆国政府が最低賃金や週40時間労働の基準を決める以前にこれを達成したことになります。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けました。

労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストは上がりましたが、フォードは販売価格に転嫁せず、生産コストを矢継ぎ早に削減することでコスト上昇分を吸収しました。またフォードのブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入しました。ヘンリー・フォードは、従業員が自社の車を買えるように賃金を引き上げたのですが、こうした厚遇は当時のウォール街の金融機関などから批判を浴びています。しかしフォードは成功を収め、1919年末にはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がT型フォードとなりました。T型以前のモデルでは黒以外の多様なバラエティがありましたが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で黒1色のみでした。

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